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2012年の幕開けに。

2012年01月06日 17:38

あけまして、おめでとうございます。


巷でウワサの、
アセンションがどうのとかいう2012年がやってきましたが、
そんな今年の年明けについて思いを馳せてみると、
私の2012年というのは、なんだかもうすでに、
去年の10月27日に幕開けしていたような、そんな気持ちです。

その日に何が起きたかっていうと、山に登ったんだな。いきなり。
広島の宮島の弥山です。

その時ちょうど、日の出を拝むことになりました。
これが実は、私の今年の初日の出ということだったんだな。と、今になって思う。




2011.10.27. 6:42 弥山・獅子岩展望台より撮影。

↑ デジカメをマニュアルモードにしていたんだけど、
絞りを小さくするのを忘れてしまったため、お日さまがでかめに写ってます。





2011.10.27. 7:10 弥山山頂に向かう道中。





2011.10.27. 8:01 弥山・三鬼堂より。

なんか、実に見事な六方放射で、ダイヤモンドフラッシュ! ってかんじ。
(個人的なイメージによる言語描写です。)

私はどうやら、この三鬼堂に導かれたもようでした。 (→ 後々に書くと思います。





この2011年10月27日というのは、
ちょうどその日の朝4:56に蠍座の新月を迎えておりまして、
そしてマヤ暦でいう、アセンションがどうののXデーは、
2012年12月21日だか23日だかと、ずっと言われていたんだけど、
誰かがよくよく検証してみたら、本来のXデーはこの日だった。という日が
2011年の10月28日とかで、その日の前日の晦日にあたります。

つまり、新しい始まりと、それまでの終わりが、ちょうどくっついているような日。


ということで、そんな日に不思議な流れで突如広島・宮島に行くことになり、
この山に登ってみたい。どうせならついでにご来光も浴びれたら最高! なんて、
気軽な気持ちでそんな計画をしてみてしまい、
実際に実行してみることとなったら、えらい大変なことになったんだけど、

暗闇の中、ひとり死にそうにヨレヨレになりながらも、満開の星空に励まされ、
諦めて帰ろうにも、ここまで来たら帰るのも大変で帰れない。
苦しくて疲れたから休む。疲れてるけど寒くなったから歩く。の繰り返しで、
無理せずにちょこちょこ休むようでいて、のんびりできるわけでもなく、
適度なペースであれよあれよと山頂まで連れて行かれるように歩かされ、
美しくすがすがしい日の出をしっかり拝ませてもらうこととなりました。


その突如起こった広島ツアーというのが、すごかった。
(「ツアー」といっても、自分の単独企画+αってかんじです。)
そこに行くことになったきっかけからして、ものすごかった。
すごい意味があって、すごいメッセージになっていて、
まさに、2012年。というかんじのすごさだった。

すごいといっても、派手にすごいんじゃなくて、
静かでいて且つ、ダイナミックでピンポイントで無駄がなく、
そこに起きたことの意味が「何か」に対して一貫して通っているような。

で、その「何か」というのがその2012年。というふうに表現できると思われる。

分離意識を脱して、ユニティ意識(統合)への幕開け。

統合とかいったって、自分が誰なのかわからないくらいの一体感というよりは、
人との関係は、それぞれであるけれども、
それぞれの動きが自分の必要に一貫して付随していることへの認識というか、
自分の意識に連動して相手がそこにいるというか、
自分は自分なんだけれども、その自分は相手の延長でもあるとか、
自分がそうやって自分であるほどに、相手の延長としてその自分があるというか、
そういう認識が自分の中に芽生えて定着すること。というだけであり、
それまでの、レムリア時代のユニティの意識状態とは違うんじゃないかと思われる。
その後のアトランティス時代の崩壊と分離意識を超えたことによって生まれる、
新しい意識の統合。

しかし、それまでの一連の流れの体験から思うに、
「幕開け」というよりは、ただ「元に戻ろう。」ってかんじなんだろうと思います。
元に戻るんだけど、新しい階段を昇っていった先にある原点。というのかな。


「アセンション」とか、あんまり聞き慣れない横文字でどうだとか言われると、
一体何が起こるんだ?世紀末か?いよいよ滅亡か?とか、
なんか壮大な、とんでもないことを思い浮かべたりして走っていきがちなのが
人の性だったりするんだろうと思うけど、
結局は、それまでたどってきた日々の連続の延長の結果として、
それがそんなふうな状態になっていく。と、言葉で表現できるだけなのだろうと思う。

だから、私が広島で体験したことっていうのも、すごかったけど、
それまでに体験してきたことのパターンと変わらないといっちゃ変わらない。
宮古でだって、思いっきり奇跡的なことはバンバン起きてきていたわけだし。
その前だって、思い返してみれば、そういう出来事はたびたびあって、
そういうのが自分の人生が前に進んでいく重要なステップになっていたと思う。

だけど、そこにあった予想以上のシンクロ体験が、より濃密になってきたというのかな。
体験の質が、もっともっとそればっかりで占めるようになってきたというのかな。

なんかこの広島の旅の体験を通して、
「アセンション」という、なんだか得体のよく知れなかったものが
どんなふうなのかという意味が、自分の中にこういうことか。と
把握できたような、理解できたような、そんなかんじです。


自分に起こってくる出来事に対しての理解とか意識が、よりクリアーになって、
すべての意味がよく見えてくるし、考えの凝り固まったような動きをしなくなる。
自分の考えることとか、発する言動とか行動する理由が洗練されるようになってきて、
結果として自分のあり方そのものが変わる。とか、そんなかんじなのかな。

自分と外側の世界の一体化というよりも、
自分の内側に対する一貫性と、そこに自分の意識の焦点を沿わせていきながら、
自分の感覚とか、感情とか、思考とか、そういういろんな心の状況に
調和をもたらしていくことが必要とされていて、
その結果として、外側の世界と連携していく一体感みたいなものが味わえるのだと思う。

だから、自分の外側に起きていることを見て、それにつられてどうこうとなるよりも、
そこから感じる自分の内側についてをよく見て、
自分の本来に流れている方向性を理解して、その時々に調整していくことが大事。

カルマの解脱っていうのも、そんなふうなところにあると思う。


そして、新年が明けて思い起こしてみたら、
私の「今年の始まり」は、この日だ!
と、改めてその旅で起きたすべてのことと、その日に体験したことの意味を
心の深くに得たのでした。

ちなみに、去年の年明けに書いた記事が、そのままそういうプロセスを踏んでいて、
10月にそんなことがあり、その次に続いていくステップとして、
今年の予兆がこんなふうにやってきているような気もします。


ということで、今年の新年のご挨拶に、
その時の日の出をここにおすそ分けしてみました。




しかもおまけに、
私は前にも、そうやって新しい年明けにあいさつをしながら、
去年のこの時の日の出をどうぞ。とやったことがあることを思い出してしまった・・・。

いつだったかな?と思って振り返ってみたら、3年前の2009年でした。 (→
しかも、そのとき撮影した日の出というのも、10月31日となっている。

実は、私のバイオリズムにおける新年というのは、10月末あたりが節目なのかな?
そういえば、そんなかんじのことがよくあったりする。


しかも、今年と同じようなことをしていたその2009年というのは、
宮古を出て新しい環境に旅立つのを、どこかで直感してしまい、
本当にそうなる流れがやってきた時だった。

そして今年も、私はなんとなく、
また新しく旅に出てみようかな。ということを考える流れになっている。
で、その具体的なお知らせを見つけるきっかけとなったのが、
その去年の広島に関連していたりとか。


なんだかな・・・。

どうなるんだろうな・・・。

ほんとに。



私はいつも、自分の人生の展開に対してそんなことを思うことになっている。

  → 話はさらに続く。
 

宇宙の闇の中に漂う愛

2011年08月18日 00:00

お盆も明けて、なんだか久々に~~、ブログ書きます。
半年ぶりですね。


その長い沈黙の間に、たまに管理画面をのぞいてみることがありましたが、
相変わらずにして、日々10人前後の人がやってきてくれていて、
来客が0になった日を目にしたことはなくて、不思議だなあ。と思ってました。

この子(ブログ)はちゃんと、生きてるのね。ってかんじでした。

来てくれる人が生かしてくれている。という話でもある。
ありがとうございます。


でもそれを見たからじゃなくて、もっと違うところから来たんだけど、
今日はなんか、「なんか書いてよ。」と言ってるような、
誰かさんのリクエストをキャッチして、
それでも、私は今、どうも冬眠中みたいだから、
「まあいつか書くことが湧いてきたらね。」とか思ってたんだけど、
何気なく過去の日記を読み返すことになって、見つけたものがあって、
「あ、これ出したいな。」ってなんか思ったので、
その「なんか書いてよ。」とやってきたリクエストの答えがこれになるのかな?

よくわかんないけどー。


よくわかんないけど、
このブログの記事を書くときは、このことを書こうとか思ったって、
書いてるうちに、なんかわかんない方向に走って行ったりして、
書いてみたって、アップに至らないものもあったりで、
結局自分でもなんだかわかんないままに、どうもなんだか書かされている。

よくわかんないけど、
これが前回の記事の続きになっているような気もしたりする。

から、
今回は、今ある自分から何かを紡ぎ出すんじゃなくて、
過去の自分が得たこんなものを、ちょうどここにやってきてくださったあなたにどうぞ。



またオーラソーマのボトルから出てきた話なんだけどね。
だけどなんか本当によくできていて、便利なのよ。 オーラソーマって。



ああ、だけどそうそう。
そういえばさっき、

何かにムカついてしまう自分とか、悲しんだりする自分とか、
何かに恐れたり、不安になったりする自分とか、苦しんだりする自分とか、
そういうふうになる自分が、なんかおもしろいな。

っていう思いがこみ上げてきて、ウフフ。とかなってたんだけど、
その答えがここにあったではないか。


だから、今ある自分のことを表していることを、過去に見つけただけであって、
これは過去のようで、結局今の私に起こっていること。なんだろうな。

そうやって私はこの先、過去にいっぱい貯めこんできたものを、
自分の今として、整理しながら吐き出そうとしてるのかな?

そういうののデモンストレーションとして、こんなことになってるのか?
ガイドさんよ?



よくわかんないけど、
時空というのは、ひと続きのようでいて、
螺旋状というか、放射状というか、
不思議なラインでくっついているみたいでおもしろい。


  → 話はさらに続く。
 

つながっていようとすることからの卒業

2011年02月22日 18:30

※ 学びのプロセス目次 →              
個別記事に入ったところから使ってください。


※ 右上にある「学びのプロセス目次」のガイドリンクについて。 ↑

今回の記事、
記事で書いたことに関連して、自分のそれまでの体験から発見してきた
「学びのプロセスによる過去の記録」というのを後ろに付け加えました。

それによって、記事の内容に対して、有機的な奥行きみたいなものが出ています。

ということで、いつも以上にますます長いことになりましたが、
そうして出てきたものは、すべてでひとつのことを表しているみたいなので、
カットしたり、どこかで区切って記事分けしたりすることができませんでした。

読む方のエネルギーの流れ具合の中で、読み進めていきたいところまで
読んでいただけたらよいとは思うのですが、

「学びのプロセス・・」にあるものは、
この記事が作られていった際の、プロセスのかけらの寄せ集めなので、
そこにあるどこか一部分を切り取ったところではなく、書いてあることのすべてで
記事の主旨に合致してくる、ひとつの「何か」を導くかたまりみたいなものが
浮かびあがっているような感じになってます。
そこにあるかけらの時系列は、一直線ではなく、行ったり来たりみたいになっています。

ので、その先も読むのなら、最後まで全部読んだほうが、
ここで言わんとして起こされたことに、しっかりはまるものが得られるように思います。

しかし、この「学びのプロセス・・」が、本記事の4倍くらいの量があるので、
時間を分割して読んだりしても、また読みたいところに辿り着きやすいように、
目次のように、大まかにひと区切りとなる部分でリンクマークをつけておきました。

必要にお使いいただければと思います。


本記事以上にそんなものを加え、ここまで長く詳細に書き出すことになったのは、
何かのリクエストのキャッチによるものだろうと、自分では感じています。

ここから何かを受け取ろうとしてくれる、あなたのおかげで
これがこのような形として、できあがりました。

自分が自分でありたい。もっと純粋な自分を生きたい。
と、あなたがただ、自分を大切にしようとして自分を見つめようとする思い。
その思いが、私に力をもたらしてくれているように思います。

もしあなたが、ここでたくさんに何か必要なものを受け取ることになったのならば、
あなたがしっかりあなたを大切にしようとしたご褒美として
それがあるのだろうと思います。

それだけ私は、あなたの力を私の力として受け取ることができたのだろうと思います。

そうやって私たち存在同士は、お互いに知ってても、知らなくても、
つながろう、支え合おうなんて意識しなくても、
ただそれぞれを、自分として生きているだけで、
見えないところでつながって、支え合っているのだろうと思います。


書かせてくれて、ありがとう。
あなたがあなたのいのちを、大切に生きようとしてくれて、どうもありがとう。


 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・



年末の、12月30日の私の誕生日に、
毎年欠かさず、おめでとうメールを送ってきてくれる友達がいて、
その友達がたぶん、私の人生の中でいちばん長らくの間続く、
つき合いみたいなものがあった。

後あとになってオーラソーマを知ってからわかったのは、
私のバースボトルは、27番のロビンフッドなんだけど、
彼女のバースボトルは、そのペアボトルの28番のメイドマリアンで、

彼女のことをよく理解できるところと、さっぱり理解できないところとあって、
性格は、突き詰めてみると、まったく正反対みたいなかんじだったんだけど、
それぞれの家庭内に抱えている悩みみたいなものがかぶっていて、
たぶん、持ってたさみしさとか不安感とかに、似たものがあったと思う。

同じ中学で、2年のときだけ同じクラスで、一緒のグループになって、
同じ高校に進学することになってから、深くつき合うことになったんだけど、
クラスが離れたりして、お互いに違うグループの友達を持っても、
登下校はずっと一緒で、バイトを一緒にやり始めて、とにかく一緒にすることが多かった。
それぞれ違う大学に進学してからも、バイトつながりでしばらく一緒で、
ずっとずっと一緒にいた分、とにかくお互いの話をしていて、
そうして話をいっぱいしたりお互いを深めあった分、
他のどの友達よりも、なんだか自分に馴染んでいた人だった。

知らない人から見ると、私たちは一緒にいると姉妹と間違えられることがたまにあり、
親も私たちをそんなふうに見ていた。


よくよく思い返してみれば、私の人間関係における、
自分とは違う質を持つ他者を、ありのままに認め、愛そうとする心っていうのは、
彼女とのつき合いの中から鍛えられて学ぶことになったと思う。

それくらい、彼女と私の間で繰り広げられたことは、
私の中に濃密で、衝撃的なものがあって、試されて乗り越えることがいっぱいあった。

同じグループを組んでいた友達と、彼女と繰り広げる友達関係っていうのは、
なんだか全然違う別次元のところにあったように思う。

彼女は長らくの間、私の中でとても大切な「親友」みたいな感じで存在していて、
親友と恋人っていうのは、なんか似てるもんなんだな。って改めて思ったんだけど、
それは私と彼女が、ロビンとマリアンという位置関係だったからなのだろうか?


私は小さい頃から、母親から父親の愚痴とかを聞く役になっていたことにより、
自分の視界が純粋な自分の視点というよりは、
母親の視点による敵味方感覚みたいなものができあがってしまっていて、
長い間、「父親」という存在に対して大きな分離感覚が起きていたせいか、
相手が男性だと、普通を装いながら、どうも身構えてしまうところがあったので、
相手が自分と同じ女性の方が、ありのままの中にある自分と相手。という、
人対人の関係性を掘り下げていくのには、安心があってやりやすかったのだと思う。


  → 話はさらに続く。
 

常にひとつの認識の中で自分を生きよう

2011年01月06日 16:43

遅ればせながら・・・

あけましておめでとうございます。



なんか、このところの日ごとのアクセス状況が異様な数字を見せています。

それまでしらーっと、ちらほらの日々でけっこう一定していたのに、
おととい久々に管理画面を見てみたら、
一日ごととかで、どばーっと人が来る日と、全然うっすらな日とで波打ってる・・・。

全然更新してないのに、なんでこんなに人の来る日があるわけ?

最近、誰かの大入りサイトとかにリンクを貼られたとかいう感じもない。
一体何があったんだ?何かあったのか?


なんかみんな、年末年始だからそろそろ更新する頃なんじゃないかとか、
私とのタイミングを見計らって、自分の感覚試したりとかしてんのか?

というのは、勝手な深読みのしすぎだろうか?


もし、私の深読みが本当に、ズバリそうです。みたいなことになって、
そうしてしまった方がいたら、おそらくその人は、
そうして予測したり見計らってしまったほどに、
フライングなことになってしまったのではないかと思います。

左脳で過去のデータを掴んじゃってそうなっていると、そうなっちゃうんだよね。

右脳でキャッチするお知らせは、もっと不可解な未知にあふれていて、
自分のテンションはかなり冷静に落ち着いていて、
その行動の先の結果に囚われるような思考というものはなく、
かなり、「ふと」、「なんとなく」、「ちょうど気になって」
みたいなところに漂いながら、
それがいつどうとか、合うとか合わないとか気にすることもなく、
自分が自分として日常に動いている流れの延長の中で、
ごく自然に、そこに辿り着いていくようなかんじになっているように思います。

なんだか心当たりのある方は、
その感覚をご参考に、ますますアンテナの精度アップに
磨きをかけていただけたらと思います。



そういえば、だいぶ前に、
どうもふいにつながってしまったらしい、プレアデス星人らしきエネルギーから、
日々の疑問から教えてもらうことになった、いろんなことの中に、
こんなことがあったのをちょうど見つけました。

---

常に自分のペースを守ってください。
自分の感覚に心を傾けて、行動のタイミングを計ります。

人はすべて、意識の内側からつながっていますから、
そのほうがずっと、お互いにちょうどよいタイミングで
物事を進めることができるのです。


自分が人に合わせようと焦るとき、
それはまた、人をも焦らせることになります。

焦る人に囚われるとき、
その焦りの相互作用は、ますます大きくなってしまうことでしょう。

人が落ち着きを取り戻す必要に、気づく手助けをするためにも、
自分は堂々と自分のペースを守ればよいのです。


そこに罪悪感を感じながらそうしてしまうと、
人の心はそこにつけ込んできます。

誰でも自分を悪者にはしたくないものです。

「人に合わせようとするのが正しい」という認識を
完全に削除することができれば、
それを要求して、あなたを焦らせようとする人は
やって来なくなるでしょう。

それが本当の調和です。

---

それが本当にプレアデス星人だったかどうかっていうのは置いておいたとしても、
(自分でも絶対的な確信というのはないです。)
(でもいつもの天使とかマスターとかのくれるのとは、明らかに種類が違います。)
(その星はプレアデスだと教えてもらったので、プレアデスだと思っているだけです。)

こうしてもらった話を、自分でも本当にいっぱい、いろいろに検証することになって、
これは本当に、時を重ねるほどに、自分の中に真実味が増しています。



それにしても、このひっそりひそやかなブログに、
何十人という人が、ある日にごそっと固まってやってくる。
という動向があるのがおもしろい。

ある意味、誰かさんと誰かさんたちは、みんなそろってシンクロしている。

誰がどうしてやってきてるのかよくわかんないけど、
みなさん、美しいです。美しいですよ。しっかり宇宙っぽいですよ。

いいもの見せていただいて、どうもありがとうございます。



ほんとにこういうの、自分で何もしようとしないほどに、
こんなものが純粋に浮かび上がってきておもしろい。

何も変に宣伝とかしようとしないままにこんなことやってたほどに、
やってきてくれた人の質っていうのが、
自分にとって必要にパーフェクトでおもしろかったし。

自分の意識がそういう、人を求めるようなはからいの仮想にズレた分だけ、
そうして来てくれた人に正す機会をもらうことになったし。


だから、いきなりですが、
読者登録で更新のメール通知するのもやめます。
RSSのリンクもはずしました。


別にいつも更新したら見に来てほしいとか、
いつもいつもここに寄りつくようになってほしいとか、
アクセス数増やしたいとか、
そんなふうに思うところから書いてるわけじゃないし。

やたらめったらに、多くの人にいっぱい見てもらおうとすることよりも、
人それぞれにはたらいてくる自由意志の中で、
必要な人に必要なときに必要なものが届くことになって、
その人にとってちゃんと意味のなすものとしてそれがあったほうがうれしいし。

気がついてみれば、
本当はこういう機能って、別に自分のブログには必要ないんだな。ということで。


なので、読者登録とかしてくださっていた方には、せっかくで申し訳ありませんが、
みなさんも、そんなものによって動かされたりして、
自分にとって本当に完璧なタイミングでガイドをくれる天使ちゃんの誘導を
濁らせてしまったりすることなく、

自分の純粋に起こってくる感覚の中で、いきなり何となく気になったり、
お知らせみたいな感じがあってふと思い立った時とか、
なんか知りたくなったことの検索で、たまたまひっかかって気になったとか、
常にそんなようなところから、ぶらりとお立ち寄りください。

だからもしかしたら、ここにはもう二度と来ないことになるかもしれないし、
次に来ることになるのは、1年以上も先になった。とか、
すっかり忘れた頃に、突如いきなり、またたどり着いてしまった。
ということになるかもしれません。

かつてご自分がここに来たときに体験した、
「何か」の思い出に囚われてしまうことなく、
そうして起きたことの記憶を常にリセットしつつ、
いつも初めてここに来ていただいたときのような、
なんだかよくわかんない中で見えないものをたどっていくような、新鮮な感覚の中で、
そういうふうにしていらしてくださることを、確信を持っておすすめします。

という思いを込めて、そんな実験をしてみる。


そして、私の書いたことと、その時やってきてくださったあなたとの間に、
ますますうまいこと、何かすばらしいシンクロが発見されることとなればいいな。
と思います。


登録解除画面へのリンクは、サイドバーに貼ってありますので、
各自必要にお手続きしてくださいね。



私も、何か自分で目安にしてしまった期日とか、誰かの思いとか、
そういうのに囚われず、
宇宙のもたらしてくれるタイミングにしっかり合わせて、
その時々に、自分の中に書きたくなることがふと浮かんできて、
それが自分の納得に落ちるところまでしっかり書き上がって、できた。
という、必然に自分に起こる動きにしっかりまかせて、
これからもなんとなく書いていきたいと思います。


そうして書く人、見る人、みんなが
自分の内側に「なんとなく」起こってくる感覚に
信頼を持ってまかせたところから純粋に繰り広げられてくる、
天使のアート、魂のアート、神の創造、宇宙の創造を、もっともっと目撃しよう。

みんなでそこに起こってくる摩訶不思議の世界に包まれよう。


もしかして、これが私の今年の抱負か?


ということで、
果たして今年も一体、何本の記事が書かれることになるんだか、
本当によくわかんないけど、

今年もどうぞよろしくお願いします!


  → 話はさらに続く。
 

自分の中に貫かれているもの

2010年10月14日 23:23

最近目にすることになるテレビは、
ますます新しい世界が開けていて、おもしろい。


朝、のこのこ起きてきて、朝ごはん前の一杯に、紅茶をしていたら、
お父ちゃんがいきなり、

「今チリの落盤事故の救出が生中継でやってるんだ。つけてみろ。」

みたいなことになって、お母ちゃんがチャンネルを変えた。



そしたら、最後のひとりの、現場リーダーの人の救出の時になっていた。

なんだけど、その現場の雰囲気が、なんかどうやら、
よくありがちなかんじのレスキューの状況ではないものが漂っている。


大統領がそこにかけつけていたりとか、
山奥の現場にチリの国旗が掲げられていたりとか、
なんかいきなり、みんなで歌い出していたりとか、

その現場の人たちの盛り上がり方っていうのが、

これって、サッカーの試合? ワールドカップか何か?

みたいな錯覚を起こしそうな、そんなことになっている。


そして、いよいよ最後の一人が救出されると、
壮大なセレブレーションが起こり、

ものすごい量の紙吹雪とか、風船が舞い、
シャンパンらしきものが、ぶわっと噴射して、
思ったよりも、かなり本格的なことになっている。

一体誰がこんな用意してんの?
ここは一体どこのスタジアムなの? みたいな。

大歓声の中、みんながまわりの人たちと、感極まりながらよろこび合って、
そしてまた歌。国歌斉唱。


チリ、勝利。 みたいな。


それまでの努力の末に、ついに自分たちの栄光を手にしたチリ王国、おめでとう!
みたいなかんじで、
その歌の中、現場に掲げられたチリの国旗のほうへと映像がズームインされていく。

現場がそんなふうであれば、それを中継する方も、そんなノリの演出。

でもそれが、わざと笑いを狙ってとか、誰かに見せるための演出的に
そんなことやってるふうとかじゃなくて、
なんかみんな真剣にそこに関わっている中で、そんなことになっている。


そしてなぜか、その救出されたリーダーは、
すぐさま保護されて安全のために病院へ。とか、そんなこともなく、

なんかいろんな人と抱き合って、よろこびあって、
そして大統領のもとへと行き、
大統領は、その人になんか称える言葉を長々しく贈っている。

何かの賞状とかを贈呈してしまいそうな、
メダルとかをその人の首にかけてあげそうな、そんな勢いである。


そんなことがますます展開されていくほどに、
どう見ても、何かの試合に優勝したみたいな、そんなふうにしか見えない。

一体何の競技が繰り広げられているのかと、考えてしまうくらい、
これがレスキュー現場だなんて、どうにも見えない。



なんだこりゃ???



そういう突っ込みどころが満載で、
深刻な緊迫感の中、かたずを飲んで見守るとかいうよりは、
ますますそんなふうなものを感じさせる、意外な展開に爆笑しながら、
みんなで釘づけになる。

さらにこの人を胴上げとかまでしちゃうんじゃないだろうか。とか、
搬送ついでにパレードみたいなことになっていたらどうしよう。とか、
そんなイメージを一層掻き立てられてしまうところが、なんだかすごい。


見れば見るほど、そのチリという国のすごさについて、ひたすら感心させれる。

すばらしいカルチャーショック。


そしてそういうのが、世界発信されていることを思うと、ますますすごい。
この国は、自分たちのそのあり方を通して、
なんだかすごいことを世界に伝えることになっている。

地球の反対側の、日本にいる私に、それがそんなふうにして届いている。


こういうのって、南米の土地柄なんだろうな。って思った。

まさに、82番、カリプソ。(← オーラソーマ)
ってかんじ。

サッカーとかだけじゃなくて、レスキューさえも、そんなふう。
この自分たちの中にある資質の、一貫した姿勢がすばらしい。



そしてその現場に携わる人たちの、ものすごい一体感の雰囲気に、

事故だろうがなんだろうが、こうして必然に起こる出来事に、
そういうふうにして取り組んでいく姿勢が、自分たちに何をもたらすか。

どんなことに対しても、それをどう見て、どう関わっていくかということで、
サッカーの大会とか、イベントとか、わざわざそんなことをしようとしなくても、
そこに必然にあることを通して、それに匹敵するくらいの、
それ以上にもなるような、いろんな感動を生み出すことができるのだと、なんか思った。

これこそ、本当のリアリティの中にある、
生きている感動とよろこびの体験なのだと思った。

  → 話はさらに続く。
 

人類滅亡について考えてみる。

2010年10月12日 16:05

昨日、晩ごはんを食べている時に、
お父ちゃんが見ていたテレビで、
人類滅亡についてなんだとかいう取材をしている番組がやってました。


で、意外にも、お父ちゃんはそれについて、何かですでに知っていたようで、
(通常の傾向からすると、「くだらねぇ。」とか言って見向きもしなそうな話。)

「そうだ、マヤがどうでこうだ。」

みたいにうなづきながら、見入ってたんだけれども、


お母ちゃんはそれを知らなくて、

「何?人類が滅亡するの?いつ?」

みたいなことになっていたので、

お母ちゃんの理解度合いに合わせて、
アセンションがどうとかいうことについての説明は、さすがに控えつつ、

「2012年の12月に、人類が滅亡するとかいう説があるらしいよ。
 で、それが実は、2011年の10月28日かもしれないって、ここでは言ってるの。
 世紀末にノストラダムスがどうとか言っていたのと同じような話だよ。」

とか教えてあげたら、


「ノストラダムスって何?」

みたいな、それさえもよくわからなかったみたいで、

右サイド(父の知識)からの衝撃に加え、
左サイド(母の知識)からの衝撃を受けつつ、

「1999年の7の月に、人類が滅亡する。
 って、昔ノストラダムスって人が予言して有名になったの。
 でも結局滅亡しなくて、我々はこうして無事に生きてるんだよ。」

みたいな話をすることになりました。



そしてそんな話をしたら、改めて思うことがあって、
こんな話に展開していった。

「人間って、滅亡の話が好きだよね。」

みたいな。


未知への恐怖と、未知への興味。っていうのかね?

自分は死んだらどうなるか? みたいな、

あなたの知らない死後の世界。 みたいな、


そういう自己に内在する未知の可能性に、
時には思いを馳せたりしたいのかもしれない。


で、
「みんな滅亡しちゃったら、どうなんの?」

って、究極のところまで仮想して、あれやこれやと考えてみたいのかもしれない。

そして、今ここにいる自分の存在についての実感を深めてみる。みたいな。


創造されている世界に囲まれているからこそ、
その反対側に見る、破滅の世界。

エロスとタナトス。
生の欲求、死の衝動。 (by フロイト)

そんなかんじだ。


そうして2012年の滅亡期日が過ぎたら、
また新しく誰かが滅亡期日を生み出すんだ。きっと。

とか、そんなことを思う。


そしてそんな話をしていたら、なんだかひらめいた。

  → 話はさらに続く。
 

ありのままに。

2010年09月25日 15:28

なんか、
最近関わったある人に対して、つくづく感じたことがあって、

そういえば、それって前に、うちにセッションに来てくれた人たち
みんなに対して、共通に思ったことだったんだよな。

ということを思い出しました。


それは、どんなことかというと、

  そのままで、とってもすてきなのにね。
  どうしてそんなに、がんばろうとするんだろう?

  それで逆に、バランス崩すことになってないか?

という話。


でもそれもそれで、その人の世界にとっては、
その人の何か大切なものを得ていく成長の過程の中で、
必要なこととしてあるんだろうとは思うんだけど。


そんなものを感じていたら、

「この話ちゃんとしたっけかな?」

と、自分の中に、ふと思うことがありました。


アトリエのセッションに来てくださったみなさんの、どれくらいの人たちが
まだこのブログを見に来てくれているのかとか、わからないけれども、
(ていうか、更新薄くて、アクセスもそんなにしなくなってるだろうし・・・)

セッション募集をやめてから、かれこれ1年近く経つわけだから、
今さらながらかもですが、ちょっと書いておきたいと思います。


それでもそれが必要な人は、やってきてくれるのだろう。ということで。
今そうすることが必要なタイミングなのだろう。ということで。


自分もやっと、うまく言葉にまとめられるような状態に達したのだろう。

それが今の自分を、また新たに創っていくものとして、
おさらいするのだろう。

またここで、誰かに感じることになっているその課題を、
自分のものとして全部総ざらいして、ちゃんとクリアしていこうぜ!
自分の蒔いた種は、しっかり根こそぎ刈り取って、大地にお返ししていこうぜ!

ということで。


それまでに、アトリエを開いて、セッションしてきたことを通して得たことの、
集大成。集大成。としてちゃんと書けてるようだと、いいけどな。


自分に起こってくるものに、従おう。
ハイアーさんの動きに、従おう。


セッション受けてない人、実際に言葉を交わしたことのない人でも、
ご興味ありましたらご参考までにどうぞ。


  → 話はさらに続く。
 

幸せとは何か?

2010年09月11日 22:22

最近なんだか、やってくるメールのやり取りは、
相手が自分に対して、どんな意識を持ってやってこようとも、
自分の中にあるものを、そぞろに引き出してくれるように思います。

ずいぶん前からそんなふうだったと思うけど、最近それをますます顕著に感じる。
どんなメールでも、そうなるように思う。

というか、自分がそういう質を持つ自分として、より確立されてきたのか?


自分の中に出てくるものを、変に流したり、自分の中にしまいこんだりしないで、
起こる感覚に対して忠実に、それがどんなものなのかをしっかり自分の中に落とし込んで、
自分に対して正直に自分を返していくことに、
100%ベストを尽くすことができるようになったのかもしれない。

それを相手がどう受け取るかは別として。


でもそうすると、どんなものが出てこようと、
自分の中に、なんか、「そうか。そうだ。」と思うものがある。
何かがクリアになって、自分に必要なものが必然に創造されていくように思う。


そうしてその人が自分に対して関わってくる姿勢を通して感じることが、
自分が普段の生活の中で、向き合って見出していたこととシンクロを起こしていて、

なんか、それまでにいろんなことを思いながらも、言葉にならなかったことを、
その人を通して感じ得たことに対して、自分は自分として何を差し出したいのか、
自分の何をシェアしながら返事がしたいのかと、引っ張り出そうとすると、
言葉になってくる。

で、まだ言葉になる手前の、あやふやに感じている何かに対して、
そこに意識を集中して、それは一体どういうものであるか、
しっかり自分にベストを尽くすほどに、
それがしっかりと言葉になって出てくるのがおもしろい。


だから、その人がどんなふうにして自分のもとにやってこようとも、
自分を引き出す起爆剤になって、そうして何かの言葉になっていくから、
なんだかありがたい。

相手がそういう自分をどう捉えようとも、
そういうのは一切関係ないところで、ありがたみがあるのは変わらない。


自分の本当に感じているものを押し殺してまでして、
相手に合わせていい顔をしとこう、やり過ごして調和を持たせようとかするよりも、
こうして自分の正直なところにあるものをしっかり浮かび上がらせて、
自分の視点として思うところを差し出していこうとしたほうが、
相手が自分と違う観点を持ってやってくるほどに、
自分の芯にあるところのものがしっかり出てきたりして、

そうするほうが、自分が相手のためにと思ってついた、小さな嘘に対して
相手が喜んだり、なんかしてくれることよりも、全然ありがたい。

相手が自分をどう思おうが構わないところで、相手がそのままにして、
何だか自分の中に、ありがたさが生まれ出てきていたりする。


そのありがたみは、
自分が舞い上がってしまうような、一過性のあやふやなかんじのものではなくて、
自分の中にかなり永続的なところに残る、揺るぎないありがたみだったりする。

必然にして現われたその人を、自分の世界を構成しているのに必要な存在として、
しっかり受け取った感じなんだな。



実際に相手と対面したりして起こす会話は、
相手の反応をタイムリーに、言葉以上にリアルに感じられる中で、
話がボンボンと進みながら、何かが出てくるのがおもしろいけれども、
その言葉が一体何だったのかのすべては、あんまり覚えていないし、
即興であるほどに、自分の深くに感じていることのすべてを
吐き出し切ることはできなかったりする。

だけどメールとかっていう、文字のやり取りでする対話は、
相手はそれにどう反応するのかとか、よくわからないところがあるけれども、
自分にやってきたひとつの言葉に対して、
自分に納得行くまで、自分の感じているものをじっくり味わいながら
深く深く自分に落とし込んで、丁寧に言葉に起こしていくことができて、
そしてそれが、形として残されるのがよかったりする。


そうして誰かとの対話の中で、何かの言葉が出てくるのは、
自分のそれまでのいろんな体験から、蓄積されたことによるものではあるんだけれども、
その時の自分が、その時のその人として関わってきてくれる中で
ひとつの形ある言葉として生まれ出るものであって、
それが誰に対しても同じことが出てくるのかというと、決してそうではなく、

それまでを含めたその時の自分と、それまでを含めたその時のその人が、
そうであったからこそ、自分はそこに感じることから、
自分とその人との違いの間に存在している「何か」を見つけて
そういう言葉を放つことになるわけであって、

自分に触れてきた、その人の持っていた側面が、
自分の中にあるひとつの側面として、何かを引っ張り出すきっかけをくれていて、
そうして起こる、魂の織りなすハーモニーによって、
それがそれとして形になって出てくるのだと、つくづく実感しています。


だからこそ、そうしてその時々に、そこに起きてきたことを大切に、
しっかり自分にベストを尽くすほどに、それはいつも新たなものとして生まれ出て、
自分一人の思う中ではまとめきれなかった言葉が、うまく形になったりして、
そしてそれが、私のコレクションのような、財産になっているようにも思います。

そういうのが形として出てくるほどに、その人あってこそできた、自分の創造を感じ、
ありがたいなあ。と思ったりします。



今日のメールも、そんなふうにしてあって、
そうして出てきたそれは、なんだかずっと前から、日々時々にいろんな人との対話の中で
ちょこちょこと、どこかで感じることになっていたことが、
やっとまとまりをもって、ひとつの文章として成り立ったようで、
やっと自分の中に確信を持って、言葉にできた感があって、

そうしていろんな人からもらうことになった宿題が、
やっとできあがったような気分になったので、
ここにもシェアしてみたいと思います。

(実際に送ったメールより、もうちょっと詳細に加筆しています。)


それが必ずしも、何かの答えになっているかといったら、
そうではないかもしれないし、よくわからないけど、
自分にとって大切な、自分の中にしっかり持っておきたい
思いの発掘となっていることは確かです。


だから、あなたがそこに、そうしてあって、
私に思いを投げてくれたことに、ありがとう。

  → 話はさらに続く。
 

ブルーベリージャム

2010年08月19日 15:22

実家のブルーベリーが、収穫ピークを迎えております。

この時期に実家にいると、これが楽しい。
ラベンダーの収穫も楽しいけど、こっちのほうがもっと楽しい。一大イベント。


今年はいっぱい採れそうなので、どれだけジャムができるかともくろんでいたら、
なんと、お父ちゃんに先を越されてしまった・・・。

去年、私がジャムを作って楽しんでいたのを見て、
お父ちゃんもジャムの作り方の研究を始めてしまい、ライバルができてしまった・・・。

しかし、手塩にかけて育てているのは、お父ちゃんなので、あまり文句が言えない。

しかし、お父ちゃんは本に書いてある通りの白砂糖でジャムを作るのが好きで、
私はそれは、痛いので食べたくない。

せっかく自由にできるんだから、
自分の食べたいような、自分がうまいと思える、自分のジャムが作りたい。


次は私の番だからね!と言って、収穫を占領し、
ブルーベリーはますますピークを迎え、実りに拍車をかけて、収穫量を増やし、
1週間くらいかけて、コツコツとブルーベリー貯蓄をしたら、
かなりいっぱいになりました。お父ちゃんの2倍。焦らなくてよかった。

そしてやっと私のジャムの番です。



鍋にいっぱいのブルーベリーを見ると、なんだか贅沢な気持ちになる。



これだけの量を普通に買ったら、一体いくらになるんだろう?
とか、ついつい勘定に走ってしまう自分・・・。

庭の木に、ふんだんに実がなるからこそ、惜しげもなくジャムにできるわけです。
豊かだ・・・。そういうのって、なんて豊かなんでしょう。

ありがとう。ブルーベリ子。 (← うちでは(私は)そういうふうに呼んでいる。)



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精製された刺激を好まない、敏感体質な方のための、
我流開発なジャムのレシピ:
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各材料の量は、なんとなくお好みの目分量で。
(納豆とかに醤油をかけるような感覚で。)
(オーラソーマしてる人は、自分のスターに聞くような感覚で。)


・洗ってよく水を切ったブルーベリーを鍋に入れ、
 甜菜糖(またはお好みの甘味料)を適量加える。

・フタをして強火の火にかける。
 (鍋の中全体に熱をまわしていくので、フタをします。)

・実が崩れて煮立ってきたらフタを取り、適当に火を弱めて煮詰めていく。
 (水分を蒸発させていくので、フタを取ります。)

・あくが出てきたら、適当にすくう。

・いいかんじに煮詰まってきたら、(大体半量になるくらいかな?)
 レモンを適当にしぼる。

・塩をひとつまみくらい、ほんのちょろっと入れて、味をしめる。

・とろみがほしかったら、煮詰める前の果汁を少し取っておいて
 そこに葛粉を解いたりするなどして、好みの固さにする。
 葛粉がなければ片栗粉とかでもよいと思います。


※あんまりかきまぜすぎずに、鍋の中に繰り広げられる宇宙による
自然の対流にまかせたほうがよいように思います。
まぜるのに手を加えるのは、鍋の中身がまんべんなくなるのを補助する程度で。

※しっかり煮詰めると、味が凝縮されてすばらしいです。
しかし、煮詰めすぎると、濃すぎてくどくなります。
味見したりしながら、ほどよいバランス地点を見つけましょう。

※甘味の量も、煮詰め具合を見つつ、味見をしながら、決めていきましょう。

※レモンのようなすっぱい柑橘類があると、味に奥行きが出ます。

※ミントなどのハーブを加えると、
葉っぱとフルーツの、香りと味のハーモニーが生まれます。
ハーブはものによって、あんまり煮すぎにならない程度のところで加えます。

※たくさんの砂糖を使わない分、常温の長期保存は難しいと思うので、
あっという間に食べてしまう方に向いているレシピです。
タイムとかの保存効果のあるハーブを加えると、持ちが少し長くなるはずです。
それでも一応冷蔵保存で。2週間以上は持つかなぁ?


まあ、やってみたい方は、各自様子を見ながらお試しください。

  → 話はさらに続く。
 

空の考察

2010年08月18日 14:00

ふいに選んだ写真より、そこからボトルのようにして、
「今」の自分にリンクしている、自分の中にある世界を覗きこんでみる試み。




2008.11.2. 15:21 宮古から東京行の飛行機より撮影。




青い空を見てると、何だか自分がリセットされるような気がする。
地球全体をぐるりと囲む、自分の上方がすべてとひと続きになってる天空の青。


本当は、青は青であることさえも、わからない。
もともとは、闇のロイヤルブルーを超えた、ディープマゼンタなのだと思う。

そこに、太陽の光、すなわちイエローがあるから、
空の青が青い色として認識される。

  → 話はさらに続く。